理の研究
このページは、「理」の研究の概要について説明しています。
This page provides an overview of the study of "Ri" (理).
此页面概述了“理”(Ri)的研究。
「存在レベル」との出会い
<3つの存在レベル>
1.第1の存在レベル 現実 ――― 物理的な領域
2.第2の存在レベル 量子 ――― エネルギーの領域
3.第3の存在レベル 「すべて」である領域
そこで、チョプラ氏の<3つの存在レベル>を土台にして、人類が明らかにしてきた「理」(=自然の摂理)を科学的な視点に立ち、確かめたいと思うようになりました。
「3つの存在レベル」
1.第1の存在レベル 現実 ――― 物理的な領域
2.第2の存在レベル 量子 ――― エネルギーの領域
3.第3の存在レベル 「すべて」である領域
3つの存在レベル
*以下の文章は、著書「迷ったときは運命を信じなさい」から引用したものです。
第1の存在レベル
現実 ―――― 物理的な領域 第1の存在レベルは、わたしたちがもっとも慣れ親しんでいる、物理的な領域で「目に見える宇宙」のことである。 わたしたちが見たり、感じたり、触れたり、味わったり、かいだりできるすべてのものがこの第1の存在レベルに属する。 物理的な領域では、時間が過去から現在、未来へと一直線に流れるように見える。 物理的な領域に存在するものには、始まりと中間と終りがあり、永遠ではない。 人間が体験している物理的な世界は、原因と結果の法則に支配されており、あらゆることが予測可能である。第2の存在レベル
量子 ― エネルギーの領域 第2の存在レベルでは、すべてのものは情報とエネルギーから成り立っている。 第2の存在レベルは、量子の領域とも呼ばれ、すべて実体がない。すなわち、五感で知覚することができない。 「自分」だと考えている精神や思考、自我などは、すべてこの量子の領域に含まれる。 宇宙に存在している形あるものすべては、量子のエネルギーと情報が形となって現れてきたものにほかならない。このことをアインシュタインのE=mc^2の公式が、物質(質量)とエネルギーは形が違うだけで同じものであることを示している。 量子の領域での出来事は、光の速さで発生しているため、人間の知覚では処理できない。それゆえ、目に見えないエネルギーや情報の波を人間は「物」として認識してしまう。 この世の中に存在するありとあらゆるものの間には、仕切りなどない。「モノに触れる」とは、電子の雲にぶつかることであり、人間にはそれを「物体」だと認識する。しかし、量子の領域では個体は存在しない。人間の知覚が鈍感であるから「物」として認識する。第3の存在レベル
「すべて」である領域 第3の存在レベルは、知性または意識で成り立っている。 第3の存在レベルは、空間や時間を超越した「すべて」である領域(非局所的領域)で営まれる。 量子を結びつけて原子に、原子を結びつけて分子に、分子を結びつけて物質の構造を築き上げている力がこの知性である。 「すべて」である仮想の存在レベルで起こる出来事は、瞬時に、因果関係もなく、時間や距離にも影響されないで発生する。「理」の研究で目指すこと
「理」の研究で目指すこと
「理」を知り、「理」に沿って生きる。
このことで、<陽気暮し(幸福な人生を送ること)>ができる。
これが私の根本原理(信条)であり、「私の幸福論」です。
「理」の研究で目指すことは、この根本原理がどれだけ正しいのか科学的な視点で確かめることです。
「理」の研究をして、それがいったい何になるのか
「理」の研究は世界観を確立するための土台づくり
「理」の研究をしてそれがいったい何になるのか。
「理」の研究をしたいという漠然とした気持ちはありましたが、こうしたことに時間をかけてやることにどんな意義があるのか(当時は)考えました。
そして、色々と考えた末、「理」の研究をすることは、50代からの第二の人生をどういう人生観・世界観で生きるのか、まさしくその土台作りをすることに他ならないということに気づいたのです。
孔子が「五十にして、天命を知る」という言葉を残しています。
少々大げさな言葉使いになりますが、私にとって『「理」の研究をする』ということは天命を知るための作業、そして人生観・世界観を確立するための土台(基盤)作りをすることに他ならないのです。
どういう立場で「理」の研究をするのか
アマチュア研究で自由な立場
私は、高校の「数学」と「情報」の教員をしています。研究者でも専門家でもありません。
これから「理」の研究を私の視点でまとめていきますが、参照する書籍は、高校生や大学初年度の学生を対象とした入門書が中心となります。専門領域にこだわらず、必要に応じて研究の領域を広げていきたいと思います。こうしたこともアマチュア研究だからこそ自由にできることと考えます。
また、最近は入門書レベルで、大変わかりやすく、すぐれた書籍が広範囲にわたって出版されていると感じます。こうしたすばらしい書籍を参照して、私の視点でまとめたことをこのような形でWeb化していくことはそれなりに意義のあることであると自負しています。
「理」の研究とは
「理」の研究 全体像(2017年 羅針盤)
根本原理における3つの問い
この根本原理は3つの問いを持っています。
1つ目の問いは、いかに「理」を知るかということです。この問いに対して、人類は学問を通じて明らかにしています。この学問の体系をみていくことで「理」を知ることができます。
2つ目の問いは、いかに「理」に沿って生きるかということです。
この問いに対しても、人類はいかに「理」を応用するか、やはり学問を通じて明らかにしています。
3つ目の問いは、「理」を知り、「理」に沿って生きることで本当に陽気暮し(幸福な人生を送ること)ができるのかということです。
この問いは究極の問いです。科学的視点で理論の展開ができるように「理」の研究を進めていきたいと考えています。
「理」とは何か ある<気づき>
「理」をなぜ、〝ことわり〟と読むのか不思議に思っていました。
それは〝ことわけ〟〔ことが起こるわけ〕からきているのではないかということに<気づき>ました。
この気づき以来、「理」とは、ことが起こるわけと考えています。
人類は自然界の「理」(すなわち、こと〔自然現象〕が起こるわけ)を自然科学を通じて、自然法則(あるいは物理法則)として明らかにしてきたといえます。
また、人間社会の「理」(すなわち、こと〔社会現象〕が起こるわけ)を社会科学を通じて統計的に明らかにしようとしているように考えます。
三大起源(2017年版)
この世界のあらゆるものは物質で構成されています。「物質とは何なのか」、
<物質の起源>を探ることは最も根源的な問いです。
生物はすべて有機物質でできています。 物質が何故に、生物(生命を持った物質)になりえたのか、冷静に考えてみれば、大変不思議なことです。<生命の起源>を探ることも根源的な問いです。
そして、生物である人間は意識を持っています。物質からできている人間が自分のことがわかるということも冷静に考えてみれば大変不思議なことです。<意識の起源>を探ることもまた根源的な問いです
このように<物質の起源>、<生命の起源>、<意識の起源>は、この世の中で最も根源的な問いです。「理」の研究では三大起源を出発点とします。