なぜ、「理」の研究をしようと思い立ったのか
父の教え
平成4年に65歳で父が亡くなりました。その父から「天理教には『元の理』という大変すばらしい原典がある。これをしっかり勉強することが大切だ。」ということを聞いていました。父は48歳で道一本(仕事を辞め、天理教の教会長としてその職務に専念すること)となり、毎日原典の勉強に取り組んでいました。そんな父の姿をみて、私もいつか原典を深く学びたいと考えるようになりました。
その転機が、私にとっても48歳の時期(とき)に訪れました。ふと、「天理教」という文字が、「天」の「理」の「教え」と分解できることに気づいたのです。「天」とは、天界、大自然、宇宙ともとれる言葉で、「天理教」はまさしく、「自然界(=天)の摂理(=理)を教えてくれる宗教(=教え)である」と思えたのです。この気づきが私にとってこれまでの「天理教」観、さらには世界観を変える契機(きっかけ)となりました。
50代からの第二の人生
また、この時期は仕事面でも、「このまま同じサイクルで仕事を続けていっても年を重ねるだけではないか、もっと自分らしい生き方はないのか」ということを考えた時期(とき)でもあります。50代を前に「50代からの第二の人生」を強く意識しました。
このようなわけで、48歳のとき、なにごとにもとらわれず、自由な形で、50代からの第二の人生を生き、「理」の研究をしようと思い立ったのです。
「理」とは何か ある<気づき>
「理」をなぜ、〝ことわり〟と読むのか不思議に思っていました。
それは〝ことわけ〟〔ことが起こるわけ〕からきているのではないかということに<気づき>ました。
この気づき以来、「理」とは、ことが起こるわけと考えています。
人類は自然界の「理」(すなわち、こと〔自然現象〕が起こるわけ)を自然科学を通じて、自然法則(あるいは物理法則)として明らかにしてきたといえます。
また、人間社会の「理」(すなわち、こと〔社会現象〕が起こるわけ)を社会科学を通じて統計的に明らかにしようとしているように考えます。
根本原理における3つの問い
この根本原理は3つの問いを持っています。
1つ目の問いは、いかに「理」を知るかということです。この問いに対して、人類は学問を通じて明らかにしています。この学問の体系をみていくことで「理」を知ることができます。
2つ目の問いは、いかに「理」に沿って生きるかということです。
この問いに対しても、人類はいかに「理」を応用するか、やはり学問を通じて明らかにしています。
3つ目の問いは、「理」を知り、「理」に沿って生きることで本当に陽気暮し(幸福な人生を送ること)ができるのかということです。
この問いは究極の問いです。科学的視点で理論の展開ができるように「理」の研究を進めていきたいと考えています。
どういう立場で「理」の研究をするのか
アマチュア研究で自由な立場
私は、高校の「数学」と「情報」の教員をしています。研究者でも専門家でもありません。
これから「理」の研究を私の視点でまとめていきますが、参照する書籍は、高校生や大学初年度の学生を対象とした入門書が中心となります。専門領域にこだわらず、必要に応じて研究の領域を広げていきたいと思います。こうしたこともアマチュア研究だからこそ自由にできることと考えます。
また、最近は入門書レベルで、大変わかりやすく、すぐれた書籍が広範囲にわたって出版されていると感じます。こうしたすばらしい書籍を参照して、私の視点でまとめたことをこのような形でWeb化していくことはそれなりに意義のあることであると自負しています。
「理」の研究をして、それがいったい何になるのか
「理」の研究は世界観を確立するための土台づくり
「理」の研究をしてそれがいったい何になるのか。
「理」の研究をしたいという漠然とした気持ちはありましたが、こうしたことに時間をかけてやることにどんな意義があるのか(当時は)考えました。
そして、色々と考えた末、「理」の研究をすることは、50代からの第二の人生をどういう人生観・世界観で生きるのか、まさしくその土台作りをすることに他ならないということに気づいたのです。
孔子が「五十にして、天命を知る」という言葉を残しています。
少々大げさな言葉使いになりますが、私にとって『「理」の研究をする』ということは天命を知るための作業、そして人生観・世界観を確立するための土台(基盤)作りをすることに他ならないのです。
「理」の研究で目指すこと
「理」の研究で目指すこと
「理」を知り、「理」に沿って生きる。
このことで、<陽気暮し(幸福な人生を送ること)>ができる。
これが私の根本原理(信条)であり、「私の幸福論」です。
「理」の研究で目指すことは、この根本原理がどれだけ正しいのか科学的な視点で確かめることです。